電通大生による自殺日記

自殺する電通大生の日常を晒す。

答えがないのは間違っているんだって

現代文の記述でなぜ間違うのか分からない。
なぜ部分点制度があるのかも理解できない。

そもそも著者でもないのに著者になりきって、問いと答えを作成する行為が意味不明である。


真実は著者だけが知っている。

一見、的外れな答えでもそれが誤りでない可能性を全否定できない。
だからどんな答えでも正解にしよう。


小論文も然りだ。
毎回持論を連れて来いと言う。

答えがないのは美徳とはされないらしい。
答えがないのは間違っているんだって。

採点者が好むような文章を書き連ね、教師が下す評価に一喜一憂し、全部大人に決めつけられ、親が望む道を言われた通りに歩く。

そして年長者が正しいと絶対的に信じる人の中に理不尽を飲み下して生きる。


これが学校で上手くやっていく方法。

彼らに従順でない子どもは異質扱い。
大人からも、子どもからも。


年長者はなんで疑われないんだろう。

本当に正しいかなんて、偉いかなんて、どう見て判断すればいいんだよ。


人って自分一人分の人生しか生きられないじゃないか。

たった一人分の人生を自分で肯定し、自分が生きてきた道は正しかったと信じてやまない。
さらにその上、自信満々に自分語りするのは楽しいか。

これは私の高校の担任と英語教師の例だが、貧困家庭に生まれ高校生から奨学金を借りており最近やっと返済し終えたとか、父親の勤務していた会社が倒産し貧乏な学生時代を送ったが今はなんとかやれているとか。


自分という規定を他人に植え付けてくる大人の浅ましさが嫌いだよ。




以上、高校3年次に使用していたスケジュール帳の殴り書きより。
 

抒情で語ることも許されない僕ら-2019年

鳥になりたい。
風になりたい。
雨になりたい。
雪になりたい。
音になりたい。

見えないものになりたい。
思想になりたい。

人はどんなものにでもなれる。



日本人は暗黙の了解の先を求めすぎている。
暗黙を理解しないと生きるのが難しい。



たかが犯罪心理学の言葉で片づけられる死など存在しない。
(おそらく祖母を殺して自死した少年を回顧した文であろう。)



年長者の言うことを聞く是非について。

子どもは大人のために生きなければならない。
頭の湧いた教師の言いなりにならないといけない。
母校の合格実績を伸ばすために、評判を上げるために。

そんなわけあるか。
同級生と比べられて、学力が全てみたいな、空っぽな人生。



先日、ドクター・ナカムラが亡くなった。

丁度授業で扱ったからとセンター試験前にも関わらず、英語教師がドクター・ナカムラへ手紙を書こうと言い出し、手紙を書かされた。
修正、清書させられ、センターに全く関係のない授業が3日続いた。

これが試験対策の授業より、人として大事な授業なのは分かっている。
ドクター・ナカムラの活動は後世に受け継がれるべきものだと知っている。

しかしなぜ彼だけなのか。
彼以外にも世の中に貢献した人物は多く存在したはずだ。

それなのに、この線引きは何だ。

そもそも、なぜ亡くなったからという理由で手紙を送るのか。
もし事件が起こらずドクター・ナカムラが生きていたら、手紙を出すつもりはなかったのではないか。
そうだとしたら逆に失礼ではないだろうか。

英語教師の言動に疑問を持たずにはいられない数日であった。



どんな大人が正しいとか、頼れるとか、助けてくれるとか、信用できるとか、短い学生生活では判明しないのに、教師に愛想を振りまく意味なんてあるんだろうか。

僕は大人のために生きているわけじゃない。

じゃあなんで生きてんだ。

どうせ人は生きて死ぬ。それしかできないのに。
それだけが全人類に与えられた平等な行動権なのに。
みなそこから目を背け長寿と延命を望む。



死ねば永遠を手に入れられる。絶対にそう違いない。