電通大生による自殺日記

自殺する電通大生の日常を晒す。

仙台駅前の歩道橋下のホームレス

昼間からセブンの前で酔い潰れている老爺を見て、仙台駅前のホームレスを思い出した。


中学、高校時代、自分にとって大事なものは家だった。
屋根、壁、玄関、窓がある物理的な家。
理由はホームレスになるのが嫌だったからだ。

ホームレスに対する軽蔑ではなく、自分の居場所がないという恐怖に近い。
幼い頃からいつか自分もホームレスになり得るのだと思っていた。

家族や友人、金や時間より、自分が生きるスペースに重要性を感じていたのかもしれない。
普通の人が大切にするものを捨ててでも、家さえあれば生きていけると、浅はかで愚かな考えを今も持っている。


十年程前に見た、仙台駅前の歩道橋の下で段ボールを敷いて寝ていたホームレスのおじいさんと、そのときバスに乗っていた自分は何が違ったのだろう。


おそらく自分は恵まれている。
恵まれているのに死のうとしている。
自分勝手な矛盾に悩み逃げている。

ナルシシズムの究極形のような生き方。
 

千年自殺論

2023年6月26日(月)~7月2日(日)

考える行為にゴールはない。
何かに興味を持つことは、その何かについて熟考することである。

何について熟考しても正答は導けない。
ひとりとして同じ人間が存在しないように、何かの答えも人間の数以上に無数に湧き上がる。

当然その全てを手中に収めるのは不可能だ。
中途半端に踏み込むくらいなら、始めから無知である方が心残りなく死ねる。


自分の死ですら責任を持ちたくないから、今すぐにベランダの鉄柵で首を吊れないのではないか。
何か外的な事情が人生の終焉を急き立てるまで自殺を先延ばしにするのは、他者や外界に責任転嫁したいからなのか。


今更何かに追いつけるはずもないのに何かを陰を追っている。
本当にやりたいことなんて昔からなかったんだ。


自分好みのバンドマンは多分大勢いた。多分今も大勢いる。
でもそのほとんどは世間の消費に見合わないから夢を捨て散った。命をも絶った。
故に彼らを知らない。その事実が残酷で悔しくてたまらない。



2023年7月3日(月)~9日(日)

世間から逃げるというのは、自分から逃げているのと同義ではないか。

それは世間を見渡してみれば、自分より死んだ方が世のためになる人間は多くいるだろう。
だが実際人一人が生きる世間は狭い。

自分にとって最も身近な世間とは家族であり、生まれて初めて見聞きする世間は親であった。現在もそうである。
その間隙でさえ、まともに生きることができない。だから死ぬ。

いやそういう言い訳をし、全てから、何もできないという事実から逃げているだけだ。


人を裏切らせてしまう結末への恐れという、どうしようもないエゴのために人に依存したくない。


人に期待するな。自分自身にも期待するな。
自分に期待できない人間が他人に期待するのは馬鹿馬鹿しい。


amazarashiの『この街で生きている』を聴いていると死にたくなるし、なぜか盛岡駅のフェザンで自殺した男子中学生の事件*1が思い浮かぶ。


もし病院の先生の言う通り、自分は悪くないのだとしたら誰が悪いんだ。何が悪いんだ。
悪夢を見るのは罪悪を身に染みるためなんじゃないのか。



*1:1986年、東京都中野区の中学校に通っていた男子生徒が、父の故郷である岩手県盛岡市の駅ビル「フェザン」のトイレで首を吊って自殺した事件。「葬式ごっこ事件」、「鹿川事件」とも言われる。学級担任も加担していたいじめによる自殺事件である。