朝倉泉*1ほど高尚な文章を18歳の僕は書けない。
僕はエリートじゃない。
己の立場を明言せずとも、貧相、無教養、下品、無神経、低能の複数に該当し、彼に見下され嫌われる。
彼とは全く異なる人生を歩んだのだから当然だ。
そもそも引き合いに出すこと自体、己の愚劣さを実感するばかりである。
朝倉泉を勝手に好敵手とみなし負けたのだ。
きっと背後で低能な劣等生の憐れな末路だと嘲笑っているに違いない。
事件を知ったとき正直羨ましくて腹が立った。
彼は生まれからすでにエリートである。
学も金も教養もない東北の百姓生まれの自分とは正反対だ。
そう考える時点で知能の低さが露呈する。
彼の劣等生狩りにまんまと釣られたわけだ。
負けた。全てに敗北した。
僕は朝倉泉になりたかった。
僕は朝倉泉に生まれ変わりたかった。
彼は事件*2の契機として、
「エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大衆・劣等生どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため。」
朝倉泉「遺書 第一章」1/25 より引用
と述べている。
非常に残念だ。
ここにまた一人、君の憎む馬鹿が生まれてしまった。
勉学より色恋沙汰に熱心な同級生も、そいつらを育てた愚図な親も、嫌味しか言えない可哀想な教師も、裕福で博識で上品で神経質で優秀な君を知りやしない。
君が目的を達成し身を投げた十年後に始まった平成も閉幕、今や令和の時代。
然れど今日、朝倉泉は存在しない。
彼のような若くて高邁な人間は姿を現さない。
少なくとも自分の周囲にはいなかった。
こんなろくでもない現代社会に君は何を考えるだろうか。
僕はそれを知りたい。
以上、高校3年次に使用していたスケジュール帳の殴り書きから。
螺旋階段と絞首台-2019年
くだらない男女擁護論死ね。
何を鵜呑みにして生きろと言う。たった12年の教育期間しかないのに。
なんで誰かが指図する人生を歩まないといけないんだ。
なんで誰かの思考通りに動かないといけないんだ。
自分を見つめる度に、いつの日か屋根に上ったシャボン玉のように、生きる意味が消えていく。
範囲があるから人は完璧を求める。
範囲を定めたのは学校、縛られたのは生徒。
かつて誰かが言った”飽くなき探究心”は言われるまでもなく、人は死ぬまで学ぶのだ。
しかし意に反して学びを絶つ日はある朝突然やってくるかもしれない。または緩やかに接近しつつあるのかもしれない。
学べない人生は死と同義か。
学べない体に成り果てたら人間であることを否定するのか。
どっちにしても残酷だ。
「自分を大切にしない人間は他人を大事にできない。自分を大切にできる人間は他人も大事にできる。自分しか大切にできない人間は他人に大切にされない」
と今日の授業で古典の教師が言っていた。
確かに一理あるが人は裏切る生き物だ。
裏切らない人間が一人いても、残りの七十億が裏切る人間だとしたら、誇らしげに掲げたその言葉に大した意味はない。
なぜ真面目に生きている奴が不親切な奴に謙虚でないといけないのか教えろよ。
自分がどれだけ苦しいのかを他人の理解に任せてくる、地元のラジオ番組のカウンセリングコーナーが嫌いだった。
いかにも「辛いよね」とか「分かる分かる」と言われたいが為に投稿する人間も、そいつをカウンセリングするスタッフも下衆だ。
目を瞑ったまま大人になって良いのだろうか。
大人は嫌なことも理不尽なことも見なかったことにして「我慢しなさい」と一丁前に教え込んでくる。
それらと向き合わなかった結果誕生したのが腐敗したこの社会だ。
自ら盲目になった故に大人は誰も助けない。助けられない。
能天気な奴らが生きていれば楽しいことがあるとほざくから、自殺する奴は後を絶たない。
楽しいことって何?
楽しい=幸せ?
幸せだから生きていたい?
幸せにならないと死んじゃいけない?
幸せじゃないとかわいそう?
楽しい、幸せ、その先に何がある?
何を求める?
生きるって何?
みんな自分の知らない何者かのベールを纏って生きている。
それに気づこうとしない。
その方が幸せだと知っているから。
そうするべきか。
疑問に同情は不要。
自分がただ一人の人間なのだと確かめたいだけだ。
だがそれは他人がいるから成り立つことで、他人の評価が基準になっている。
他人の評価はくだらないと嘆くくせに。
自分は矛盾している。
他人も矛盾している。
誰もが矛盾している。