電通大生による自殺日記

自殺する電通大生の日常を晒す。

この世界に味方は一人もいなかった

親や教師といった、学生にとって身近な大人は本来、子どもの味方であるべきだ。
生憎、自分の関わってきた大人はそうでなかったように思う。



家庭内で意見すれば、母はすぐに否定から入った。
高専を受験したいと話したら「普通の高校じゃないから駄目だ」と言われた。
中学、高校及び卒業後の進路、大学、一人暮らしする部屋等、人生の選択肢は全て母の手中にあった。

幼少期は、計算ドリルをボールペンで解いただけでありえないほど罵声を浴び、毛布にヤクルトをこぼした際には家から追い出された。

祖父母宅で自分が使用した後に、自動水洗トイレが故障し水が流れっぱなしになったときも怒鳴られ、何もしていないのに自分のせいにされた。


以上は母についてだが、教師も例外ではない。

小学生の頃から、教師に対し不信感を持っていた。

自分ではないのに、クラスメイトの悪口を言ったと誰かが担任に告げ口したせいで、長々と理不尽な説教をされた。
このとき、この先生は生徒をよく見ていないのだ、と思ったのを今でも覚えている。


中学の部活では、顧問に陰湿な嫌がらせというか叱責*1を受けた。

祖母の病気により部活を数日欠席したら、自分がいない日に限り、顧問は「身内の病気くらいで休むな」と他の部員に怒っていたらしい。
せめて本人がいる場所で、本人に向かって言うべきことではないか。

その後、部活に戻ったら戻ったで「おばあちゃんは大丈夫ですか」と面倒くさそうに聞いてきた。
どうせ嘘なんだろ、的な感じで。
その性悪さに腹が立った。

教師もまた、信頼できる存在ではないと悟った。
勿論完璧な人間なんていないが。




この世界に味方は一人もいなかった。


一人で生きていれば、いくらでも優しい人間になれる。
いくらでも嫌な人間になれる。

大勢の中で生きるから、なりたくない人間になる。
他所からの評価を気にする、くだらない人間になる。


大衆は自身の人生を美化することにこだわり、幸福に取り憑かれている。
疾うの昔に自我を失ったことに気づいていない。

いや愚かなのは自分か。
大衆を非難する自分が一番浅ましいか。
 

自嘲、誹謗、確執、厭世

2023年7月10日(月)~16日(日)

自殺者が遺族を空から見守ることはできない。安らかに眠ることはできない。
自殺者が天国に行けるはずない。

では地獄に堕ちるのか。
自殺者全員が地獄に堕ちるほど悪人ばかりではない。
おそらく天国でも地獄でもない場所に寂しく彷徨うのだろう。



段々、夢と現実の境が分からなくなってきた。
ふと脳内に浮かぶ光景が実在した記憶なのか、夢の中で見た景色なのか区別できなくなってきた。



時の流れは常に一定なのに、上半期が終わった空気感に流されまいと、一人意地を張っている。



高校時代、旧帝と同志社を志望大学欄に書いていた。
自分には到底、手の届く大学ではなかった。そんなことは承知していた。

この行為の目的は人生を終わらせるためだった。
人生が無意味であることにはすでに気づいていたから、不合格の衝撃が死を後押しすると期待していたのだが、挑戦権すら得られなかった。



2023年7月17日(月)~23日(日)

田舎者は隣人の不幸、良くない噂、悪口が大好物である。
そんな話をしても何の得にも学びにもならない。
時間の無駄だ。ただ低俗な快楽を覚えるだけだ。

自分たちの愚かさ、醜さが最たる不幸だといつになったら気づくのか。



どんな光にでも闇はある。闇があるから輝ける。

この世界はとても綺麗なもので構成されている。
街ですれ違う誰もが何かしらの予定を持ち、それなりの格好をして、その道を歩いている。

何もない自分はこの世界から消えるべきだと思う。



生きることに心残りを感じたときは、己の学歴を思い出せ。
同級生はもう4年生で、就職先も決まっていて、来春には卒業する。

彼らは国立大卒という称号を手にする。
お前が手に入れられないものだ。

良いか、今更生きてしまっても彼らと横並びにはなれない。
だから死ぬんだろ。

親の言いなりで、あんな底辺高校に入学した過去は変えられない。
そこで数々の選択を誤ったことも、不要な我慢を強いられたことも変えられない。
だがなかったことにもできない。

死ぬしかないんだ。
生きていても恥さらしだ。



*1:叱責とは、他人の失敗や過ちをしかりとがめることである。そのため当ブログ内での叱責の使い方は適当とは言えない可能性がある。